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バスケットボールの家庭教師とERUTLUCができるまで

1993

指導者として卓越した人物を目指す​

僕がバスケットボールに出会ったのは小学校4年生の時です。ちょうど転校先の小学校を出た5つ上の先輩達が全中で優勝して、自分も先輩たちのように卓越した人物になりたいと思いました。僕が中2の時に、全中で優勝した先輩たちがインターハイに出て、中学の練習に遊びに来たことがあったのですが、その先輩達と1対1をしてトップのレベルを知り、プレーヤーとしてトップに行くのは自分の持ち合わせる能力では無理だと感じました。僕はバスケットボールが好きだったし、人にバスケを教えるのが好きでした。前々から将来は自分にしかできない事を仕事にしたいと思っていたので、将来バスケットボールを教える立場になりたいと思いました。それがきっかけで、プレーヤーとして卓越した人物を目指すのではなく、指導者として卓越した人物を目指す事を決心しました。身近な場に、先輩達を全中優勝に導いた恩師がいたことは僕にとって大きな事だったと思います。

バスケットボールの考案者
ジェイムズ・ネイスミス
1993

代表インタビュー

1998
シャンソン化粧品の練習補助

1998

千葉大学教育学部に進学

大学は千葉大学に進学しました。大学では、指導者の勉強を続けながらも、体育会でバスケットボールを続けました。大学の4年間は指導者としての勉強に特化するのではなく、プレーヤーとしてできる時間は限られていたため、続けることに決めました。自分のプレーヤーとしてのレベルアップは指導者になる上で必ず意味を持つと思いました。大学で学んだ事は、僕の人生を大きく変えたように感じます。僕の中で一番の出来事は、日高哲郎先生との出会いです。日高先生は当時千葉大バスケ部の監督をされていた方で、僕は先生に出会い、人間として、指導者として、大きな影響を受けました。僕は、自分の能力が全国に通用するものではないと分かっていながらも、小中高とバスケットボールを続けてきて、それなりに自信がありました。そしてその傲慢はある転機につながります。僕にとっての人生最大の転機は、大学2年生になってすぐの大会でした。僕は試合終盤で悪いミスを続け、先輩たちのゲームを壊してしまいました。その時日高先生に、もうバスケットボール続けられないかなと思う程叱られました。しかしその時、先輩や同期のチームメイトに諭され、自分の未熟な考えを日高先生に正してもらいました。それから指導者を目指す上で、先生には今まで以上に多くのご指導を受け、大学の後半には先生のクリニックのアシスタントを積むなどして勉強を続けました。

千葉大の練習補助
日本代表のアジア大会引率
2002

2002

バスケットボールの家庭教師立ち上げ

​千葉大学大学院に進学

僕は教師になり、チーム指導にあたろうと考えていました。教員になってバスケを教えるという夢で卓越するという事は、強い部活を作ることだと考えていたからです。しかし、自分の影響を最大化していく卓越の仕方もあるのではないかと思いました。そこで、「指導者を育成する」という道で卓越しようと考えました。そこで、教授になるため、大学院へと進みました。大学院に入ってすぐに、学費を稼ぐために個人事業としてバスケットボールの家庭教師をはじめました。当初は勉強の家庭教師をしようと考えたのですが、将来的に指導者を目指す立場であるため、バスケットボールの家庭教師に変更したのが始まりです。当時はお金をとってバスケットボールを教えるという文化が根付いていなかったため、認めてもらうまでに時間を要しました。指導を重ねるにつれ、口コミで次第に活動が認めてもらえるようになりました。初めは今ある出張指導と同じ形態で行っていました。僕が最初に赴いた出張指導先は月島の児童館でした。同時に、千葉大学のバスケ部にOBとして指導に行っていました。

2003-4

2003

第1回クリニック開催

当時は出張指導という形態しかとっていなかったのですが、出張指導を依頼した方以外の子ども達にも指導を受ける機会を与えたい、と考えクリニックという形態を取りました。クリニックにはアシスタントに大学の後輩を呼んでいました。

2004

千葉日曜練習会開始

第1回サマーキャンプ開催

クリニックを経て、より多くの子ども達に定期的に指導を受ける機会を与えようと感じました。そこで、2004年5月2日に千葉日曜教室をスタートしました。千葉日曜練習会は、現在のサンデースクールとなっています。現在ある練習会や、ERUTLUCのスクールの発端です。また、バスケットを教え上手くさせるということだけでなく、人間的な成長も同時に僕たちがサポートすることも大切です。バスケットボールというチームスポーツを経て、チームスポーツならではの事柄で選手の成長に貢献するため、夏にはキャンプがスタートしました。キャンプにおいて、宿泊だからこそできることで教育に貢献しようと考えたからです。

2005

子供の指導研究会スタート

学びは僕たちにとって必須条件です。ERUTLUCには、勉強を続けないとコーチを続けられないというシステムがあります。僕たちの活動では、子どもの指導研究会という勉強会を毎月行っています。上級コーチが講師を担当し、若手コーチが受講者として参加しています。若手コーチにとっては新たな事柄を学ぶことのできる機会となり、上級コーチにとっては学んだことを伝えることでさらに理解が深まるという仕組みです。子どもの指導研究会では、バスケットボールのスキルに関する事柄から、メンタル面に関する事柄まで幅広く扱っています。
僕が
大学生の頃、一太郎というアプリを使ってバスケットボールの指導書のようなものを書いていました。本を読んだり、調べてりして自分で仕入れてきた情報をまとめて整理したものです。今思えば、僕にとっての初めての指導書の執筆でした。これが子どもの指導研究会の始まりであり、コーチ育成のための一つの大きな手段となりました。

大学1年生の時のレポート①
大学1年生の時のレポート③
大学1年生の時のレポート②
​横断幕はキャンプで必ず登場します!
2005

2007

(株)ERUTLUC設立

教授を目指すにあたり、子供にバスケットボールを教えるという夢は捨て、指導者を育てるという事に重点を置いたのですが、この活動なら子どもたちに教えながら指導者の育成もできると考えました。それが、僕がこの活動を生涯の仕事にしていくことを決めた理由です。cultureという言葉があります。文化という意味です。この言葉の語源は、「土を耕す」です。土を耕して人が住んでいなかった場所に人が住み、文化を根付かせていくという意味合いがあります。お金を払ってバスケットボールを習うという文化のない日本の土壌を耕して、新たな文化を構築する、つまり「文化を変える」ことを意味して、cultureを逆から読んでERUTLUCという発想です。会社のロゴは、子どもと大人が手を取り合っている絵です。子どもと指導者とをどちらもを育てるという意味があります。また、子どもの成長につながる環境を大人が作っていくという意味がこめられているデザインです。バスケットボールの家庭教師は僕たちの会社の事業名です。将来的にはバスケットボールだけに縛られない活動をする事が一つの目標なので、社名にはバスケットボールという単語をいれず、新たな文化構築を目的としました。

大学1年生の時のレポート④
現在の子どもの指導研究会資料
2007

これから、より良いバスケットボールの文化を構築していく上で、子どもたちがベストを尽くすという教育環境を今後どれだけ作ることができるかが大切だと考えています。観客は非日常を好みます。観客が、「普通の人はこんなにできないよ」と思うくらい練習して、努力している人たちがお互いやりあっている真剣勝負は、人々を興奮させ、感動させ、楽しませてくれると僕は思います。それがスポーツの面白さでもあるからです。そして選手たちにとっても、準備を周到にし、ベストを尽くすという事は教育において大きな意味を持ちます。​そうしてきた選手たちは、きっと大人になっても自分のベストを尽くすことができるようになるはずです。そして、まだスポーツに関心がないまま人生を終えていたかもしれない子どもたちに、スポーツの価値を伝えたいと考えています。価値のわからない人々に価値を伝えるというイノベーティブな活動は、企業だからこそできることだと僕は考えます。今後もより多くの子ども達によりよい環境を与えることができるよう、僕達の挑戦はまだまだ続きます。

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